2011 Summer

I've threw myself into daily assignment.
And, two years have now passed.

What a wuss(sorry).

I'm gonna visit Cambodia this summer again.

May be I'm gonna lose my touch to take photos.

In thoughts and spirit,I'm not fulfilled.

I'm activity-accountable because of world-wide helping hands.

Thank you world.


職場の異動でどたばたして、知らないうちに2年が過ぎてしまった。

遊んでいるわけではなくてそれなりに生きているわけだが
忙しさに任せてこの体たらくだ。

夏にプレア・ヴィヘアを訪問する予定を立てている。

そろそろ現場を踏まないと、感覚が鈍ってくるころだ。

と、いうわけで、Facebookとの連携も含めて
一本記事を書いてみた。

さて、どんな結果になるか。



映画「SCOPE」 から

 世阿弥という人ががこんな言葉を残している。

「美しい『花』がある、『花の美しさ』といふ様なものはない。」

ここで触れられている「花」とは、野に咲く花のことではない。

能などの世界で、美の到達点のことを「花」と言い表したものである。
私のような無知な者でも、この文章が「花伝書」と呼ばれる書物の中にあることを鑑みれば
なるほど、そうなのか、という程度には理解できる。





日曜日に渋谷のUPLINKという小劇場のような会場で映画を見てきた。

タイトルを「SCOPE」という。

犯罪を犯した人間を監視するための「Scope法」なる法律が存在する
近未来の日本。

性犯罪を犯した人間は、刑を言い渡された後に出所したとしても
残りの生涯の行動や住所に至るまで、すべての情報を公開され
誰でもアクセスできる状態になっている、という世界だ。


内容は、思い出すたびに身を切られるような、
とてもつらい映画である。



近代法に分類される法制度の元にわれわれは生きている。

近代法では、「罰」は「人間」ではなくて「行為」に対して課せられるとしている。
「罪を憎んで云々」という話は、これに基づいている。


この近代法の範囲では、「行為」に対して懲役刑が処せられたら
刑期を終えれば出所することになる。

だが、この映画の中の世界では、「人間」に対して
一生涯にわたる罰を与える法律がある。



「被害者や、その家族の苦しみは消えることがないのだから
犯人も同じだけ苦しむべきである」


納得。
性善説を頭から信じるほど、私もおめでたくはない。



では、私の感じているグロテスクな影はなんだろう。


この法律は、「性犯罪者は決して更正することはない」という
人間不信の塊のような前提に基づいているのではないか、という不気味さだ。


刑法の解釈では、懲役刑を課せられた人間が、一定期間服役し、
「更正・改悛」の状が見られるとき
仮釈放という手続きにより、社会へ復帰することがうたわれている。
罪が消えたわけではないから、保護観察などの方法で見張られているのは同じことである。

社会に出ても服役しているのと同じような扱いで、
規定の刑期を終えるまでは国の管理下である。

ぴったりした言葉が見つからないのがもどかしいが、決められた刑期までは
「罰を受けている最中」であるといえる。


これに比べて、このScope法である。


ある「罪」に対して法律で一定の刑が科せられたとする。
その間服役して、出所する。
これで、「罪」に対する「罰」が完了する。


すると、その瞬間から「人間」に対して「死ぬまで」の「罰」が始まる。
これはもともと「無期懲役」だったのではないだろうかと錯覚する。



「性犯罪者が反省することはありえないので、あいつをもっと苦しませてほしい」と
言っているように感じられる。
反省の可能性が低いのならば、まず懲役の期間を長くすることが
本来の方法ではないだろうか?


懲役を長くしても、反省する可能性がないから「いい」方法を考えました。
世間のみんなでやっつけちゃいましょう。


懲役刑にしないで、わざわざ首から犯罪歴の札をぶら下げた状態で社会に放つ。

なんだか冷静さを欠いているように感じるのは私だけだろうか?


「自分も苦しいから、あいつも一生苦しめちゃえ」

もし自分や家族が被害者になったら、「そのとおりだ!」と言ってしまいそうだ。
否定する自信はない。
知らないうちに、自分の後ろにグロテスクで濃い影ができていた。
その姿は、私だ。



Scope法は映画の中の話なので、参考になった実際の法律の名前で語ることにしよう。
アメリカの、ミーガン法(メーガン法)という法律である。

最初に州法として成立したのち、連邦法になった法律である。



「犯人が許せないから、懲らしめてやれ」
と思うのは、とても素直で、当たり前の反応だと思う。

とはいえ、このような感情が法律になってしまったら
本当にこの世の中は住みやすい世の中なんだろうか?


誰かにとって住みやすい世界が、別の誰かにとって住みやすいとは限らない。
だからお互いの領域には過度に踏み込まないことで
危ないバランスを保ってきたのではかなったか?

しかも、被害者自身が本当に救われるかどうかの議論は
この法律とは別の場所にある。

復讐を果たし(加害者が罰を受けたことを、被害者はそんな風に見られるとは思えないが・・・)たら
被害者の心の傷は癒されるのか?

それほど単純なら、心療内科の医師は苦労がない。



世阿弥の言葉が宙ぶらりんになってしまった。


「花」が美しいのは、演じる人間がいてこその美しさである。

「花の美しさといふものはない」という言い方は、
「演じる人間」を考慮しない演技の良さ、という抽象的なものは存在しない

というようなことであろうか。


「犯罪」もまた、行為者なしには起こらない。
「誰か」が「何か」をしたから、「犯罪」が起こる。

「行為」と「人間」を完全に切り離すことなんて
もともと無理な課題だったもかもしれない。
それがわかっていて、挑戦している。

人が集団で生きることそのものが、無理難題に挑む行為なのだ。

そして、世界にはまだ暴力が満ちている。


わかったことは、
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がなんだか空虚に感じられるのは、
こんなに簡単な理由だったんだ、ということだけ。

頭が混乱しただけだった。



P.S.
佐野元春氏がホストを勤めるテレビ番組のプレビューにまで責められる。
ゲストはミスチルの桜井和寿氏。
「定型質問」という、アクターズスタジオを思わせる質問がある。


佐野「嫌いな言葉は?」
桜井「『難しいよね』という言葉かな」
佐野「思考停止、ということですね」

耳の痛い言葉だ。
解決に向かって努力しない人間は認めない、と全否定されてしまった。
だれかもう少し優しくしてくれないかなあ・・・。


自分に言い訳を

 もうずいぶんとブログを更新していない。

「生きてるのか?」

などというお言葉をいただくこともある。


決して具合が悪くて臥せっていたわけではないのだが、
職場でシステムの部署への異動があってからというもの、
家に帰ってなおコンピュータに向かう気分にはなれないものだ。


映画好きは相変わらず。

先週は「孤高のメス」という映画を見た。
見たあとで、考え込んでしまった。
作品のことではなく、原作を書かれた先生のことを、だ。

漫画の原作から、小説になり、映画化された作品で、
原作は、執筆もなさる外科のドクターだ。

先生はご自分のブログで意見を述べるとき、一本背筋の通った意見をおっしゃる。

そこで先生は、

物語の中には、なにかしらの「救い」があるべきだ。

という旨のことを書かれている。


私も、表現の中には「救い」があったほうがいいと思う。
あってほしい。
(あるべきだ、と私などが論ずるのは口幅ったいので、こんな物言いになってしまう。)

現実の世界がこれほど残酷なのだから、
せめて物語の中くらいはハッピーエンドになってほしい。
私の好きな物語の展開はいつもベタベタなものばかりだ、と笑われる。


そう考えながら、自分の撮った写真のことを想う。
私の写真には、「それに似た何か」があるのだろうか、と。


私の写真は「自己表現」のつもりで撮ってはいない。
起こっていること、存在していることを記録しているつもりだ。

そもそも、私の「自己」などひとさまにお見せするような代物ではない。


私の目の前で大事件は起きないし、ドラマティックな出会いや別れはない。
ただ、そこで起こっている「事柄」から自分が何かを感じたから撮っている。

私的な事柄を記録し、ネットワークのトラフィックを無駄遣いしていいのか?
そんなことを考えているうちに1年が経ってしまった。

立ち止まっても走っていても
時間は残酷に流れていく。



以前よりも雑多な内容になることは容易に予想できる。

物事の始まりは、「混沌」の中にあったのだ、と自分に言い訳してみる。


侵食


タイとカンボジアの間で、政治的な問題が浮上している。


隣国から亡命してきた元首相を、自国の経済顧問に据えるのだから
刺激しても仕方がないか。

これについては、別のエントリを立てます。



ずいぶん更新が遅れてしまったが、次の訪問までに記憶を取り戻しておかないと・・・。


さて、なんとも不思議な光景が忽然と現れる。

2mほどの1辺をもつ石の建造物を、木が侵食している。


近くによると、この石の建造物は内部に祭壇のようなものを持っている。

そこに線香が焚かれていて、

遺跡というよりは、近隣住民の神棚のような感じがする。



木の根は地面からではなく、この建造物の壁面に根を張り巡らせている。


この樹木も、タプロム遺跡と同じようにガジュマルの類だろうか。



この木の向こう側に空しか見えないのは

そこが切り立った崖の上であることの証のようなものだ。





その崖のふちまで言ってみると、北側に低く建物が見える。

タイ国境の向こう側にある建物で、ガイド君は

「あそこからこちらを見張っているんだ」

といっていましたが

建物の造りは、要塞や前線基地には見えない。



空気人形

 少し前のニュースだが、監督はじめ皆さんの表情がすばらしいので
便乗させていただきました。


カンヌに映画を出展した是枝監督たちだ。
この映画、すでにIMDbにも登録されている。



3月に「エンジンフィルム」の安田匡裕氏がお亡くなりになったことも関係したのか
是枝監督は「ちょっと充電したい」と洩らしているようだ。

「誰だよ、その人」と思われる方がほとんどだと思うが

私がひそかに愛している映画「ワンダフル・ライフ」をはじめとする
是枝監督の映画のほとんどをプロデュースし、

そのほかにも

こちらもすでにお亡くなりになった、相米慎二監督作品「東京上空いらっしゃいませ」や

最近では西川美和監督の「ディア・ドクター」も彼の手になる。

物事は、裏側で支えてくださる人のおかげで成り立っている。



9月26日に公開された映画「空気人形」は、
そのふんわりとしたタイトルからは想像できない衝撃的な映画だ。


原案となった漫画が発表されたのは1998年というから、
このテーマは時代を問わないのだということがわかる。


R-15指定を受けていることから想像できると思うが、内容も少しきわどい。



空気で膨らませる人形だから、体の中身はカラッポだ。


人形と触れ合った人々の中の一人が

「自分もおんなじ。 カラッポだよ」

と言う。

互いに多くを語らないから、事実とメタファの境界があいまいになってくる。




そして、原作にはない登場人物をオダギリジョー君が演じている。

短いシーンだが、この創造主というか、神様のような存在が印象深い。



くわしくはぜひ映画を見ていただきたいのだが

これらのシークェンスは、実際に「人形」を作っている方を取材して
盛り込まれたらしい。



この映画では、「こころ」と呼ばれているが

それは 「いのち」のイメージに近い。

われわれだって不安なのだ。



原作は短編集だが、最初に空気人形が登場した短編のタイトルは

「わたしを愛してください」

というものだった。



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